鬼滅の刃が完結したので総評という名の感想文を書いてみる(205話ネタバレあり)

鬼滅の刃、完結おめでとうございます!!!

ハマりにハマった漫画の完結を大好きなうちに迎えることが出来たのは寂しいけれど本当にうれしいことです
もう一つ愛してる漫画は着地点見失っちゃってるんで猶更ね・・・(遠い目
というわけで鬼滅の刃全205話を通した総評を書いていきたいと思います

※最終話までの本誌バレありますのでご注意ください

 

目次

貫いた『竈門炭治郎の物語』

鬼滅の刃は炭治郎が家族を殺され、生き残ったたった一人の家族である禰豆子が鬼にされ、彼女を人間に戻すための物語だ。
ここで重要なのは炭治郎の目的は『鬼への復讐』ではなく、
『妹を人間に戻すこと』
『人を守る為に悪鬼を倒すこと』
『人の尊厳を守る為に強くなること』
この3つこそが竈門炭治郎の目的であり、最後まで貫き通した信念だった。

妹を鬼から人間に戻す、その為には鬼から情報を引き出せるくらい強くならなければいけない、そして同じように家族を亡くす人たちを増やさぬよう悪鬼を倒す。
改めて鬼滅の刃の物語の構成を読み返すと必要な戦いを最低限でこなしていったほぼ最短ルートを辿っている。
戦いの合間合間に時間が飛んだり、やろうと思えば上弦との戦いはもっとエピソードを膨らますこともできただろう(童麿の新興宗教などおあつらえ向きのネタだ)

そして炭治郎の話以外は極限まで削っている。
柱の過去や鬼の過去などは1~2話で終わらすため情報の密度が非常に高い。それに単行本での補足が入っていくスタイルだ。
他のも炭治郎や善逸の単独任務もやったいう事実だけはあったりいくらでも脇道はあったが一直線に駆け抜けていった。

思うに、これが人気の秘訣なのだ。
人気作になっていくと主人公より脇キャラが主役を張るエピソードや世界の謎を解き明かす壮大な過去編が投入されがちだが鬼滅の刃はそこを最小限に留めた。
漫画好き、考察大好き勢だとこういう展開を好みがちだが本来のターゲット層である少年というのはあくまでも主人公の物語を主人公の視点で楽しみたいのだ。

少年漫画の理想像

あるジャンプの伝説の編集者達の座談会記事がある。

『ドラゴンボール』と『ナルト』の元担当編集が語る「ジャンプ」の裏側 ― 絶対に敵わない『ワンピース』に勝つために『ナルト』が取った戦略とは【鳥嶋和彦×矢作康介×鵜之澤伸×松山洋】

これによると

  • 主人公の成長だけを描く
  • それ以外を描く場合はそれが主人公の成長につながるならいい
  • 主人公不在でもいま主人公がどういう状況か読者が把握していなければならない
  • 敵の成長はいらない
  • ライブ感が一番大事
  • 少年が少年のうちに物語が終わること

こういう漫画が少年漫画の理想なのだという。
こうやって見てみると鬼滅の刃は理想通りだっからこそ子供たちの支持も受けることとなったのだろう。

炭治郎の『慈しさ』

日本一慈しい鬼退治のキャッチフレーズが独り歩きしすぎた感あるが、炭治郎はどんな鬼にも優しく慈愛に満ちたおくりびとになるわけではない。
炭治郎は並外れた嗅覚により鬼がどれだけ人を喰ったのかがわかり、人を喰うなら斬る。しかし鬼が消滅の際に悲しみや虚しさを感じているのならば憐みの慈悲をもって地獄へと送る。
これが沼鬼や半天狗のような救いようもない鬼だと叩き伏せて終わりだ。
人の死を悲しみ、人の尊厳を落とすものには怒りを露わにする
そういう論理感を一貫して持って行動していた。
自分の正義を信じ真っ直ぐに駆け抜ける、王道の少年漫画の主人公である。

それと同時に13歳で家族を殺され、様々な死を見届けてきた『陰』があり、頭が固すぎる(精神的にも物理的にも)、畳みかけるボケなど彼にしか出せない独特のキャラも確立している。
ビジュアル的にもオールバック、額に痣、耳飾り、市松模様の羽織など少年漫画主人公としては異質なデザインながらもカッコよさとポップさとインパクトが詰め込まれた素晴らしい造形だと思っている。

 

『英雄』ではなかった竈門炭治郎

鬼滅の刃の通した『竈門炭治郎の物語』という筋と炭治郎自身は重要なファクターではあるけれど炭治郎ひとりで何もかもやれる万能性は最後の最後まで無かったというこのバランス感覚が見事じゃないかと思う

ヒノカミ神楽という日の呼吸を受け継ぐ家系の継承者ではあるが、基本は炭を焼いて売って生計を立てていた少年であり、鬼殺隊に入る前から鬼を殺せた悲鳴嶼・実弥・無一郎と違い、最初は戦う力などない子供だった。
それを2年間の修業を経て鬼と戦えるほどに成長し、鬼殺隊で任務をこなせるくらい強くなったわけだが、2年間みっちりやったからこその成長であり、一足飛びで鬼を無双できるような強さではない。
漫画でもアニメでも神回と言われたヒノカミ神楽初披露回ですら累を倒せず動けなくなり、義勇によって助けられ累瞬殺と柱と一般隊士との差を、まざまざと見せつけた。

そして続く無限列車編でそれが強く押し出されることになる。
無惨に血を多く投入された下弦の壱を皆の力で倒した後、突如現れた上弦の参・猗窩座と炎柱・煉獄杏寿郎との戦いだ。
下弦の鬼とは格が違うというのを見せつけ、柱もまたその力を見せつけるも上弦の鬼の圧倒的な強さの前に敗れ、主人公である炭治郎は手も足も出せずにそれを見届けるしか出来なかった。
しかし人の強さと儚さを尊び、戦いの末散った煉獄のその姿は炭治郎の魂へと焼き付くことになる。

炭治郎は日の呼吸という特別な呼吸の使い手だったと判明するも、それが圧倒的すぎる力になると言うわけでもない。
続く遊郭編、上弦の陸である堕姫相手にはじまりの剣士である縁壱が憑依したかのような状態になるもあと一歩のところで命の限界が訪れ、しかもその堕姫は音柱・宇髄天元に一瞬で首を落とされる。
特別な呼吸があり命がけの覚醒をしてなお柱に遠く及ばないのが炭治郎の現状で、それは幾重もの修業や覚醒を経ても最後の最後まで柱を超越した存在にはならなかったのだ。

何故鬼滅の刃にインフレが起きなかったのか

何が言いたいかというと、少年漫画にありがちな大幅なインフレが起きなかったという点だ。
インフレが始まってしまうとそれに合わせて敵も強くなり、仲間が相対的に弱くなり置いてけぼりになるのが常である。
そうなると途端に戦闘における戦える味方が戦う前から脱落していく。

鬼滅の刃の根本のテーマは人は不滅であり、繋ぎ託していくことだ。
人の命は有限であり、腹に大穴が空けば死ぬし、腕が斬り落とされたら元には戻らない。
キャラクターの命を決して無駄にはせず、生に意味を持たせて遺志を繋いでいく。

それは最終決戦となった無限城での戦いの火蓋を切って落とされるところから既に始まっている。
太陽を克服した鬼・禰豆子を狙う無惨を誘い出し、鬼殺隊当主である産屋敷耀夜は妻と子もろとも自爆、その隙に血鬼術での束縛・珠世の薬投与・悲鳴嶼による攻撃を仕掛け、柱が集結したことろで上弦の鬼の待つ無限城へ落とされることとなった。
この『ラストダンジョン突入』の流れの衝撃は漫画史に残るレベルのインパクトがあったと個人的には思っている。

上弦の鬼との戦闘は基本的にタイマンではなく、1対複数での総力戦となる。
大怪我を負い犠牲を出しながらも無惨戦の為に上弦の鬼を最小限の犠牲に済ますために命を使い切る戦いを徹底していった。
その最たるものが黒死牟戦だろう。
遭遇してしまった霞柱・時透無一郎が腕を切り落とされ右肩を刀で貫通の上貼り付けにされるという衝撃的な戦闘開始から鬼喰いの玄弥、稀血の実弥、そして鬼殺隊最強の悲鳴嶼の4人のまさに死力を尽くした総力戦は若き二人の戦死者を出す壮絶な幕切れとなるが嘆く暇さえ与えられず無惨との最終決戦へと挑むこととなった。
そして最後の戦いである無惨戦は炭治郎達や柱たちだけではなく無名の隊員達、そして最終的には非戦闘員である隠まで参加しての総動員での鬼退治となる。

アンチ『英雄待望論』

特別な家系、特別な能力を持った主人公である竈門炭治郎は重要なファクターであり続けるも、唯一無二の稀代の英雄にはならなかった。
本来その位置にいた稀代の英雄になるはずだった継国縁壱は妻子を守れず、無惨を仕留めきれず、信頼していた兄は鬼となり、鬼殺隊から追放され、最後の最後で兄を仕留めきれず、作中最強の力を持っていたにも関わらず何もなしえずその生涯を終えたのと対照的だ。

無惨を倒すという執念、覚悟が千年もの間脈々と受け継がれ、人の縁が巡り、結実した。これは登場人物の誰が欠けても成しえなかった。
無惨戦は『夜明けまでラスボスを逃がさない』というミッションの為、長い、単調、薬強すぎと言われがちだった。
少年漫画的カタルシスについては主人公が必殺技でカッコよく決めて終わりの方がよっぽど少年漫画らしく、事実日の呼吸十三ノ型にはそれを求められていただろう。

しかし『英雄待望論』というのはある種の逃げだ。
英雄に全てを託すというとカッコよく聞こえるが、自分では何もせずただ一人に責任をかぶせ、もうアイツ一人でいいんじゃないかなと成功すれば称え、失敗すれば責める。
それをしてしまったのが継国縁壱だ。
何故無惨に挑んだあの場に縁壱しかいなかったのか。
もし鬼殺隊の柱があの場に控えていたらバラバラになって逃げた無惨をもしかしたら仕留めきれていたかもしれない。

だからこそそれから300年かけて鬼殺隊は呼吸法、剣技、柱、育成システム、支援組織などありとあらゆるものを用意して打倒鬼舞辻無惨への執念を磨き上げてきたのだろう。
人の縁が壱となり、ようやく訪れた夜明けこそが鬼滅の刃の物語だった。

 

『鬼舞辻無惨』という色んな意味で漫画史に残るラスボス

ここで終始一貫、最終目標であり続けたラスボス・鬼舞辻無惨について語りたい。

はじまりの鬼であり、千年生き続け、人を鬼に変えることのできる唯一の鬼。それが鬼舞辻無惨である。
黒いペイズリー柄の服装を好むマイ〇ルジャクソンを彷彿とさせる美青年だが、問題はその性格と行動原理だ。
無惨の目的はただの一点、生き延びることだ。
その為唯一の弱点である太陽を克服することに固執し、太陽を克服する鬼を作るために鬼を増やし、青い彼岸花を配下の鬼に探させていた。

基本的に漫画のラスボスには基本的に悪の美学を感じるカリスマ性というものがある。
最終目標でありラストバトルを盛り上げる最大の敵にはそれ相応の強さとそれまでに登場するであろう魅力的な中ボスクラスの敵キャラもひれ伏すカリスマがなければならない。

無惨のエポックメイキングなところはその性格の最悪さと小物ぶりである。
すべての鬼は無惨の配下であるが、従う理由は無惨を信奉しているからではない(信奉している鬼もいるが
鬼はいつでも無惨へ位置も思考も読まれ、『無惨』という名を発しただけで死ぬという呪いをかけられ、基本的に群れる行動を出来なくさせられている。
ようするに無惨以外の鬼は無惨に心から忠誠を誓っているのではなく、そうしないと死ぬからせざるを得ないのだ。
ただ生きたい、邪魔されたくない、短気でどこまでも自己中心的な男である。
だからこそ部下はいびり殺す、生きるために逃げることを恥と思わない、自分以外を思う心をひとかけらも持っておらず、ついにラスボスと対面した主人公へ発した言葉は「しつこい」「お前たちは生きてるのだからいいだろう」「異常者」・・・
カリスマ性などない小物で恥知らずなサイコパスだが、それが一貫して突き抜けてしまうと別ベクトルのカリスマが産まれるというのを我々読者は目の当たりにした

『純粋悪』なラスボスというのも当然いる。
例えば脳嚙ネウロのシックスやハーメルンのバイオリン弾きのケストラーなど悪を凝縮した輩で憎く倒したくなる悪の象徴として抜群の存在だ。
しかし無惨はそれらとは趣が異なる。
彼もまた病弱で死と隣り合わせの人生を送ってきた生への執着心の強いただの人間だった。
薬を投与され、効かないことに腹を立て医者を殺害し、その後鬼になったということに気づくという自業自得っぷりから鬼舞辻無惨という怪物は産まれてしまった。

生への執着、これこそが無惨の全てだ。
勝てない男が出てきたら恥も外聞もなく散って逃げ、男が死ぬまで隠れて過ごし、戦いで劣勢となり疲労を感じ始めて全力ダッシュで逃げる。
この行動をキメツを読んでいる誰しもが無惨ならこういう行動をとる、と認識しているのが凄い。キャラクターの個が皆に認識されているからこそである。

極めつけが死んだあとだ。
最後の最後で無惨は人に託すことの素晴らしさを知り、主人公である炭治郎へと思いを託したのだ『鬼殺隊を倒し、鬼の王となれ』、と。
この託すことと思い付きでの行動を一緒にするメンタリティ。読者の怒りが最高潮に達した瞬間だった。
そして最後の最後、無惨は炭治郎に縋りつき、これ以上ないほど情けなく、みじめな別れをして延長戦は終わる。
ラスボス戦でこんな方向性のカタルシスは正直初めての体験だった読者も相当多かったのではないか。

バトル漫画のラスボスというのは大体色々な次元を超越した悪や存在だったりする中で鬼舞辻無惨は生々しさのある狂った人間を描き切ったのだ。
今後エンタメにおける『ラスボス』を語る際、必ず引き合いに出される存在となっていくだろう。
それほどまでに憎たらしく、記憶に残るラスボスだった。

賛否両論ある子孫・転生エンドだが・・・

無惨を倒し、鬼がいなくなった世界で鬼殺隊は解散し、かまぼこ隊と禰豆子の4人は竈門家に戻り幸せそうに暮らし―――なんとここで時間が百年ほどキンクリし現代となった。

その時代にいたのは炭治郎達の子孫、そして鬼と戦い亡くなった人たちが生まれ変わり幸せに生きる姿だった。
ラストシーンは竈門家に大切に飾られている日輪刀、耳飾り、そして皆で撮った白黒写真で幕を下ろした。

この最終回、ファンの間では賛否両論が巻き起こった。
賛としては平和な世の中で鬼殺隊を生きた皆が平和で幸せに暮らして綺麗に終わったこと。
否としては子孫には思い入れがないからどうでもいいのに炭治郎達のその後を有耶無耶にしたこと。

個人的には賛の方だ。

鬼滅の刃の舞台は大正初期、そしてこの後大正時代はスペイン風邪の流行や関東大震災、そして昭和へはいると戦火に見舞われることとなる。
鬼殺隊も痣を発言した炭治郎、義勇、実弥に残された時間は少なかったはずだ。
生き抜いたキャラたちにも現代へ至るまでに幸せなことも悲しいことも色々あったはずだ。恋も別れも、誕生も死も、だ。
その正解をいくらでも描けたのにそれを描かず幕引きしたのは正解を一つにしない為ではないだろうか

恐らくあの後に善逸と禰豆子、炭治郎とカナヲ、伊之助とアオイが結婚して子を授かったのだろう、もしかしたら義勇もそうだった可能性がある。
しかし確実な描写は描かれていない。
もしかしたら単行本のコソコソ話にて補完する可能性はあるが、今のところはシュレーディンガーの猫箱の中だ。

あの後どうなったのか、確実なことは何もない。
確かなのは竈門家にカナヲ似の男子と炭治郎似の男子がいること。
我妻家には善逸の曾孫である禰豆子似の女子と善逸似の男子がいること。
伊之助似の嘴平という姓をもつ男性がいること。
義一という少年がいること、桃寿郎という炭彦と仲のいい男子がいること。
産屋敷輝利哉が存命なこと、愈史郎が珠世の絵を描き続けていること。
大正時代の仲間と似たような人たちが同じ時代を幸せそうに生きていること。
青い彼岸花は枯れたこと。
鬼はもういないこと。

それが炭治郎達が成しえたものだという事実だろう。
それはやはり、幸せな結末なのだと思う。

 

ありがとう鬼滅の刃

というところで私の鬼滅の刃感想を終わらせていただきます。
連載開始から読み続け、那田蜘蛛山あたりからの漫画としての覚醒を感じて好きになり、無限列車編からジャンプで一番好きな漫画となり、アニメ化を経て去年末から突然沼へと落ちてしまった鬼滅の刃ですがついに終わってしまいました。

毎週のように悲鳴を上げていた日々がもうないのだと思うと本当に寂しいのですがまだまだ単行本、炎柱外伝、映画無限列車編、そしていつかアニメ二期が来るはずです。
まだまだ鬼滅の刃熱は収まりがつかないので精一杯楽しんでいこうと思います。

吾峠呼世晴先生、4年間の連載お疲れさまでした!!!

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この記事を書いた人

青森県弘前市在住の兼業主婦で地元サッカーチーム・ブランデュー弘前サポーター。
青森県や弘前市の地方情報やブランデュー弘前情報の発信、PRしています。
最近は『はじめの一歩』毎週感想かいてます。その他漫画レビューもアリ

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